屋号、屋号紋の由来Origin of the trade name
初代中山三蔵は、下総国南葛飾郡金町村の中山家から分家し、
松戸村にて呉服店を創業しました。
当時は、生業を始める際、出身の国の名を付けることが多かったようです。
(例えば、近江の国出身で近江屋。松坂出身で松坂屋など。)
初代も、創業する際、店名を考えたことでしょう。
下総屋。葛飾屋。金町屋。
しかし、江戸川をはさんでいるとはいえ、距離にして3キロちょっと。
そこで、実家のある場所は、葛西神社の門前であったため、
葛西神社の名前を拝借し、「葛西屋」という名前を付けた、というのが、
代々言い伝えられている内容です。
ご存知の方も多いと思いますが、葛西神社は現在も存在しています。
お祭りには欠かせない祭囃子である
「葛西囃子(かさいばやし)」発祥としても有名ですし、
毎年、酉の市が開催されております。
当店も毎年、年末の酉の市は、葛西神社で熊手をいただき、
商売繁盛を祈願しております。
また、屋号紋である「ヤマサン」紋は、
創業者である中山三蔵の、「山」と「三」を取って、
「ヤマサン」の紋を使用させていただいております。
創業期(江戸末期から明治期)Founding period
時に仁孝天皇、江戸幕府は将軍家慶、天保の改革の晩期、江戸町奉行遠山景元(通称:遠山の金さん)のころ、天保10(1839)年、武蔵国南葛飾郡東葛西領金町村の中山家より分家した「中山三蔵(文政2(1819)年生まれ)」、下総国東葛飾郡松戸村水戸街道沿い(現千葉県松戸市松戸旧水戸街道沿い)にて、葛西屋を創業しました。
当時は、庶民は絹のきものを着られなかった時代。太物を中心に、消耗品である足袋なども扱い、水戸街道宿場町の需要に応えていたようです。
松戸宿の今昔については、「松戸よみうり」様の記事が非常にわかりやすいです。ご参考に、リンクを貼っておきます。
松戸よみうり(第854号)「松戸宿の今と昔」
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創業から28年後には、大政奉還、明治維新という激動の時代を迎え、それまでの商売の常識はすべて変わってしまったことでしょう。また、企業は30年目に転機を迎え、そこで継続するか廃業するかの分かれ道だといいます。初代は48歳、2代目作次郎は25歳。次の代に道を譲るタイミングでもあったこの時に、創業の精神を受け継ぎつつ、新しい風に乗れるように後継したことと思います。
そして、明治6年(1873年)初代三蔵は永眠いたしました。享年54歳でした。
明治時代もしばらくすると、文明開化の波。それは松戸の町にもやってきます。商売も順調に進み、明治13年(1880年)には、現存する土蔵(蔵)が建設されました。当時の建築技術の粋が垣間見られる建物です。
その頃、葛西屋の発展に重要な仕事を残した、3代目澤次郎が、婿入りしてきました。一概には言えませんが、江戸幕府をはじめ、様々な会社の歴史を紐解いてみると、3代目が重要であることが多いようです。後述しますが、3代目の意気込みは、現在の経営陣にも言い伝えられております。
そして、明治21年(1888年)2代目作次郎は永眠します。享年46歳でした。3代目澤次郎は、婿入りして間もなく、30歳で家督を継ぐこととなったのです。
明治22年(1889年)、松戸は、矢切村と合併し、「松戸町」が誕生しました。その時の人口は、約4,000人との記録が残っています。
また、文明開化の影響で一番大きかったのは、人やモノの流れが一変した、鉄道の開通でしょう。明治29年(1896年)、日本鉄道(株)沿岸線(常磐線)の田端土浦間開通するとともに、松戸駅も開設されました。この影響で、町の中心が、松戸神社周辺の宮前町から、松戸駅周辺に移ったと聞いております。
明治24年には、激動の時代を生き抜く4代目庄之助が誕生しました。明治期、3代目澤次郎は、2男7女に恵まれ、次男 治三郎は後に東京帝国大学を卒業し大蔵省に入省、また大学講師を務めるまでに、長女さくは、カサイヤ洋品店へ分家、その姉妹たちも現在でも中山家に続く親戚関係の基礎を築いております。
発展期(大正から昭和初期)period of development
大正5年(1916年)、庄之助の長男盛一郎が誕生し、その翌年には、のちに5代目を継ぐ政夫が誕生します。
当時、呉服は生活必需品。揺り籠から墓場まで、第一礼装から浴衣、ふろ上がりのガーゼ、晒まで、ひっきりなしにお客様がやってきたといいます。3代目、4代目の活躍があってこその今があるといっても過言ではありません。
しかし、昭和初期の昭和大恐慌から太平洋戦争に至るまで、受難の日々であったことは、日本人であるならば誰しもごご存知であると思います。
激動期(第2次世界大戦から高度経済成長期)Turbulent period
右:松戸指定衣料品共同配給組合の立て看板
昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が勃発しました。戦争の影響は、松戸の地にも葛西屋にも及んできました。生活用品は統制経済になり、繊維関連商品も統制対象となりました。
5代目になる政夫は、庄之助の次男です。恐らく彼は、長男の盛一郎が葛西屋を継ぐものと確信していたことでしょう。その証拠として、政夫は、大学卒業後は南滿洲鐵道株式會社に就職し、満州の撫順にてサラリーマンとして勤務しておりました。しかし、昭和19年に、長男盛一郎が、フィリピンのルソン島で戦死。次男の政夫も、昭和20年3月に満州にて現地招集にて出征しました。このころは、商売どころの話ではなかったことでしょう。庄之助とその妻である きよ、並びに優秀な番頭たちが、数少ない商品を調達し、何とか商売をつないでいったそうです。
昭和20年8月、日本は終戦を迎えます。松戸にも葛西屋にも新しい時代が始まりました。5代目政夫は、前述のように、出征し終戦を迎え、シベリアへ抑留されたっきり帰ってきません。生きているのか死んだのかも分からなかったそうです。
昭和23年に政夫が無事に帰国しました。
この頃の松戸は、進駐軍が白井基地に駐留していた関係で、米軍将校が松戸によく買い物に来ていたそうです。葛西屋にも、米軍将校に丸帯や黒の絵羽織などを買いに来て、子供たちにガムやチョコレートなどをくれたりしたそうです。みんな、片言の英語で接客したそうです。
また、昭和30年代に入ると、郊外のベットタウン化が進み、松戸も常盤平をはじめ、多くの団地が建設され、人口が激増したそうです。当時の葛西屋は、家具も扱っており、多くの転入者のお客様が家具を買いに来たそうです。
(家具と呉服の売り場で分かれており真ん中の男性はトラックに家具を積み込んでいる)
昭和39年の東京オリンピック開催時には、多くの外国人の方々がたくさん入国されるとのことで、トラベラーズチェックの処理方法の説明書きが、今でも残っています。
そして、昭和44年(1969年)に、現在の店舗が建設され、ほぼ同時に、6代目政明が、大学卒業後3年間の修行を経て、家業に就きました。
バブル景気から現在From the bubble economy to the present
6代目が社長に就任した昭和50年代からバブル景気にかけて、呉服業界は非常ににぎやかでした。昭和56年のピークには、呉服業界の市場規模は1兆2000億円規模であったそうです。平成27年度現在は、3000億円前後と言いますから、そのギャップに驚きを隠せません。
当店はいつでも不易流行。現在も、昔からの本業を大切にしつつ、様々な工夫をしながら商いをしております。お客様の人生の一ページのお手伝いができるよう、社員一同、精進しております。